2018年4月号『本のひろば』 評者:大坂太郎先生
アントニー・M・コニアリス著
松島雄一訳
評者:大坂太郎(おおさか・たろう=(アッセンブリー・ベテルキリスト教会牧師、日本福音主義神学会東部部会理事長、四月以降山手町教会牧師)
人生の苦難や悲しみに非常に肯定的な評価と積極的意義を読者に!
評者が幼少期を過ごした町。その名も北海道苫小牧市山手町というのだが、さして広くもない町内には教会が二つもあった。一つは自らが所属するペンテコステ派の、そしてもう一つはハリストス正教会であった。林に囲まれた住宅地にそびえる会堂は自らがその一隅に住む教会よりもより一層教会らしく、小学校の写生会にも用いられていた。それから幾星霜、正教会司祭が著した本の書評を頼まれることになったのだから人生とは面白いものである。本書はギリシャ正教会の司祭、アントニー・M・コニリアスが書いたものであり、原題は『悲しみと絶望の時に神を見出す』という。しかし内容の軽妙さとこれが正教会司祭によるものであることを前面に出した邦題には訳者のセンスを感じる。然してその内容は「処方箋」ということばがぴったりのエッセイであり、それを読むことによって生きるためのヒントが簡単に得られる仕掛けになっている。「ひと通し」で読むのも良いが、訳者が勧めるように寝る前に二つ三つと読むもよし、また目次を見て気になったところをギデオンバイブルよろしく拾い読みしても良しという形でまとめられておりまことに便利な一冊である。
さて171のエッセイの中に共通して流れている思想の中で取り上げたいことは以下の三点である。まず何よりも著者は人生における苦難や悲しみに非常に肯定的な評価を与えていることである。「苦難は、それにどうやって勇敢に耐えるべきかを知っていれば、私たちを神の前にも人の前にも、いっそう輝かしい者にしてくれる」(クリュソストモス)や「この世を前進させてきたのは苦難を受けた人たちだった」(トルストイ)、さらには「あなたが『人は自分自身のために生きるものではない』ことに最初に気づいたのは、いつだっただろう。、、、苦難の時だ。」(シュバイツァー)といった古今東西の賢者たちの珠玉のことばを縦横無尽に引用することによって苦難の持つ積極的意義に読者をいざない、励ましを与えている。だがそれに留まるのではなく、原題が示すように筆者は読者の目を巧みに神ご自身、あるいはイエス・キリストに向けさせ、神に在る希望を読者に見出させるよう仕向けているのだ。その白眉とも言えるのが「『悪しき金曜』は『善き金曜』に変えられた」(76,77頁)である。これは英語で受難日をGood Fridayというところからの説き起こしだが、「ある出来事が起きたその当日には、起きた事は何事も、ふさわしく評価されない」という言葉はキリストの受難の事実と結合し、文字通り深く根を張ったものとして私たちに迫ってくるのだ。
第二に苦難の中でなお楽観的に生きることを提唱していることも見逃せない。特に「今日は何の日(104,105頁)」や「神に寝ずの番をまかせれば」(108,109頁)などにはかつてアメリカの良心と評されたノーマン・V・ピール牧師の『積極的考え方の力』にも通じる健全な楽観主義の思想が流れている。とはいえこれは闇雲に根拠なき積極的告白をせよと迫っているのではない。むしろ私たちの人生を「善」へと導いておられる神に対する信頼と祈りこそが明るく、前向き、積極的、肯定的に考えるバックボーンになっていることを教え、その上で落ち込み、絶望の中にいるであろう読者に神を見上げて祈ることを同時に勧めているのだ。これは近藤勝彦先生言うところの強かなオプティミズム(『信徒のための神学入門』、教文館)であり、クリスチャンライフの実践そのものだといえよう。
第三に落ち込みや絶望から脱するための全人的なモデルが提供されていることも大切な指摘である。とにかくバランスが良い。特に2章に渡って書かれた「エリヤの落ち込み」では燃え尽きた預言者、エリヤの姿をスケッチすることにより、自己憐憫や孤独と言った心理学的側面や神への信頼の不足と言った宗教的側面だけでなく、疲労と空腹と言った身体的な側面に関しても十分に言及している。これは非常に素晴らしいことである。実際人間はこの世で生きる限り精神が肉体を離れてあることはない。だから筆者が挙げた「どんな悲しみもパンによって小さくなる」(セルヴァンテス)や「人間は愛・仕事・遊び・礼拝という4つの本質的要素によって生きている」(カボット博士)といった言葉は未だに「月、月、火、水、木、金、金」が抜けきらない我々日本人に対する箴言になること請け合いである。またここに挙げられた多くの名言は説教作成や例話探しに悩む苦悩する我ら牧師にとっての心強い処方箋ともなるだろう。一家に一冊、常備薬的に備えるのも良い。一読をお勧めしたい。