評者:坪井節子 氏-『暴力と人間 トゥルニエとグリューンを読む!』
人間の尊厳の回復を示唆する貴重な証言。
評者:坪井節子(つぼい・せつこ)氏(社会福祉法人カリヨン子どもセンター理事長/弁護士)
工藤信夫著『暴力と人間 トゥルニエとグリューンを読む!』
(四六判・304頁・1,600円+税)
精神科医として臨床の現場に長く携わりつつ、日本のキリスト教のあり方を問い続けてきた著者が、人格医学を提唱したポール・トゥルニエ(1898-1986)、心理学者アルノ・グリューン(1923―2015)、高名な大学教授から障害者支援の場へ転身したカトリック司祭ヘンリ・ナウエン(1932-1996)等の著書を読み解き、自身の著書や著者主催の読書会参加者のレポートを紹介しながら、暴力に支配される社会の現実を切り開く希望を探し求める。全体は4章で構成され、「暴力と人間(トゥルニエ)」「強い人弱い人(同)」「従順という心の病(グリューン)」「女性であること(トゥルニエ)」が各章で取り上げられている。
著者の問いは、精神科の患者の中に、教会の指導者に従うことを強制され、魂を引き裂かれた真面目な信徒が多数いたことから始まる。トゥルニエは言う。我こそは真理を持っているのだと信ずることほど人間に力を与えてくれるものはない、と。この世界を変革し、苦しんでいる人々を解放しようとするところに入り込む無意識的な暴力。メシア・コンプレックスの罠。
現代人が追い求めてきた力、強さへの渇望、暴走が、物理的暴力、心理的暴力を生み出し、組織、権力による支配は、軍事、政治、経済のみならず、医療、福祉、宗教の領域をも侵す。弱さ、小ささを価値なきものとして、パワーハラスメント、虐待、DVなどの病的な現象を引き起こし、精神疾患に苦しむ人を増やす。トゥルニエは、組織もまとまりもなく、整った深い教義もなく、イエスとの出会いと兄弟的交わりだけが大切にされる小さなグループに活路を見出す。確かに教会がそのような場を提供できたら、どれほど救われる人がいることかと思う。
1章の付記(70頁以下)で紹介される、ナウエンの「弱さの神学」も示唆に富む。引き裂き破壊する力から、結び付け癒す力へ向かうための3つの提案。①身近に、そして世界中にいる貧しい人々に目を注ぐ。②貧しい人々を、真心から世話するために必要なものを、神は与えてくださると信頼する。③予期せぬ悲しみに気落ちするのではなく、予期せぬ喜びに気づく。そうすれば、神の奇跡を見ながら暗闇の谷を歩き通すことができるとのメッセージは、虐待のために行き場を失った子どものシェルター活動に従事している筆者には、ことのほか心強く響く。
3章では、暴力、従順が生まれる過程のグリューンによる心理学的解明が詳述される。中でも、財産や地位という外面的なものの獲得競争に与れず、人格に関わる内面的価値を軽んじられ、暴力や屈辱を受け、社会的に軽視された人が、自分が無価値だという考えを麻痺させるため、敵対者もしくは自分が一体化できる強い暴君を必要とするとの指摘には、ヘイトスピーチやトランプ現象など、昨今の社会情勢を顧みて強く肯ける。
シェルターに避難してくる虐待を生き延びた十代の子どもたちは、幼い時に両親に受容された体験がなく、常に暴力や冷遇の下で、従順である以外に生きる術がなかった。長じて親を離れても、自分の存在を肯定できず、人を信じることができない。他者を攻撃し、孤立を恐れて人や性や薬に依存する。子どもを産んで虐待の連鎖を引き起こす。グリューンの分析は、私たちの現場体験そのものである。
グリューンは、解決策として愛や共感を提示する。著者も述べるように、拍子抜けするほどシンプルな提言である。しかし、暴力、支配と服従、人間疎外の対極にあるのは、人と人との対等なパートナー関係から生まれる、人間の尊厳の回復しかないのだと思う。傷つき果てた子どもたちと共に生きることは、辛い。目を背けたくなるような現実を前に、私たちはあまりに無力である。しかしその無力の極みの中で、支援者たちがスクラムを組み、ひとりの子どもを真ん中にして寄り添い続ける。すると固く閉ざされた心の扉が、そっと開く時が来る。本当は生きていきたい、愛されたいという小さな炎が見える喜びの瞬間である。まさに本書で語られる、無力な貧しい者どうしが、共に生きることそのものをめざす、小さなグループの中で、子どもがひとりの人間として、息を吹き返すのである。もしそれがイエス・キリストの臨在の証であり、この世の教会の役割のひとつの形であるなら、どれほどにうれしいことだろう。