書評が寄せられました

評:西原 智彦氏(金剛バプテスト・キリスト教会 牧師)

濱和弘牧師より『傘の神学Ⅱ 特殊啓示論 -- 隠れた神からの語りかけ』をご恵送いただきました。クリスマスシーズンにプレゼントをいただく喜びを味わいつつ、第一巻『普遍啓示論』からの続きとして待望の一冊でしたから、一気読みいたしました。

B六版308頁の内容は、福音主義神学における啓示論の学びの二冊目の参考書として、十二分に用いられる内容だと感じました。聖書が「神の言葉である」という議論において、著者は自由主義神学と新正統主義の意義を十分に認めつつ、「聖書は宗教書です。むしろキリスト教が思惟に基づく哲学ではなく、宗教経験に基づく宗教であるならば、そこに現れ出る言説に、神秘的で非合理な一面があって然るべき」(182-83頁)と保守的な聖書観を、霊性と絡めて堅持しています。

とはいえ詳細にあたっては、字句拘泥主義や命題主義的聖書観・世界観に大きなチャレンジを与えています。無誤・無謬論争に関しては「誤りをも通して真理を伝えることのできる信仰の論理である逆対応の論理によって顕れ出る神の全能の力が垣間見られます」(208-9頁)と記し、言い難い事実を的確な論拠でまとめる言葉に唸らされます。

聖書正典に関しては、保守派の聖書論に見られる、聖書記者の霊感論への傾倒を打破し、初代教会史における教会会議の決議に重心を置きます。「聖書は人間の言葉です。…つまり、誤りがあり、誤謬があり、時には欺瞞がある人間の言葉で聖書は記されているのです。しかし、神はその聖書の言葉を、教会会議において神の言葉として承認することを求めたのです。」(151頁)古代教会史を知らずして「教会は後追いで正典を承認したに過ぎない」といった言い方で脱歴史化を図る保守的聖書観の方々に、聖書論を教会史から考えるきっかけを与えるに違いありません。

さらに聖書の解釈、現代への適用に関しては、現在を過去化する方向性で解釈に臨むのではなく、過去を現在化する方向で臨むべきことを強調し、性的少数者に関する聖書箇所の解釈にある程度の分量を割いています。小林昭博氏の著作を引用しつつ「現代の思想や状況を聖書の時代である古代の言葉に持ち込んで理解し批判するという解釈に対する小林の鋭い批判」(228頁)に同意しています。適用に関しては「『わたし』という個人に関するものであって、自分以外の人に向けることはできません」(238頁)とし、過去起こった啓示が現代人へいかに語られるか、という動的な視座を与えています。

保守的な福音主義神学においては十二分に刺激的な特殊啓示論であり、しかも心の奥底に抱えている疑念へ果敢に踏み込んだ内容ですので、二冊目としてお勧めです。

さて、本全体の論の展開としては、啓示論に関する著者のバックボーンであるマルティン・ハイデガーが説いた「『存在』を立ち顕す『存在者』」という哲学的思考が用いられていることが鮮明になっています。見えざる神を顕す存在者としてのイエス・キリストを特殊啓示として最前面に打ち立てています。「イエス・キリストという人間の歴史の中に生まれ生きられた存在者を通して、神が『わたし』にとってどのような関わり合いがあるのかということをより具体的に知ることができる…神学の言葉で言うとき、それは特殊啓示という言葉になります。」(33-34頁)この啓示論の視点から、イエスの救済論的役割に関しても踏み込んでいるところが痛快です。神との正しい「関係」に戻ることを「救い/掬い」とするがゆえに著者は、主の祈りにおいて信者に至高神を「天の父なる神」と呼ばせるイエス・キリストの啓示論的・救済論的役割をこのように記します。「そのことによって、神を父とするイエス・キリストの宗教経験をなぞらわせます。それは、わたしたちに、神を父として追体験させ、それに応答するという信仰を求めているからです。」(52頁)

その上で、このイエス・キリストを指し示す書として聖書が存在する、という順序で聖書も特殊啓示であることへと展開します。「聖書はわたしについて証しするものだ」(ヨハネ5:39)というイエスの言葉を足がかりとして、旧約聖書がイエスを指し示す啓示の書であると立証していきます。「すなわち『律法』と『預言者』は『神の目から見た人間のあるべき姿』を示しています。だからこそ旧約聖書は、その成就した存在としてのイエス・キリストを証ししているのです。」(38頁)この論の展開は”キリスト教”の組織神学としてとても順当であり、知的に納得しやすいです。しかもそれが「存在と存在者」という哲学的枠組みで語られることにより、救済論、そして終末論にまで議論が発展されている柔軟さと一貫性を帯びています。とても小気味よい特殊啓示論です。

その上で数点、贅沢な願望が沸き起こりました。第一に「イエス・キリストを論証する旧約聖書」という順で記されたがゆえに、古代イスラエル史の果てにメシアが与えられた、という救済史の物語性が失われている点です。組織神学書にそれを求め過ぎてはいけないのでしょうが、著者が聖書の物語性を強調しているからこその高望みです。「聖書は絶対的な命題としての真理を語る科学の言葉としてではなく、一人ひとりの人生という相対的な場に生きる人の生を物語る物語を通して語る文学の言葉としてわたしたちに語りかけるのです。…聖書の言葉が、物語の言葉として語られるとき、神の前に限界性のある人間の言葉が、人間の言葉であると同時に、その限界性を超え、神の言葉としての神言性を有するのです。」(244頁)古代イスラエル民族という存在者、そしてその代表者となるメシアという存在者によって至高神の存在が立ち顕れるという物語があってこそ、東方教会の「神化」論も現実世界に接地するのではないかと感じました。

第二にイエス・キリストを証しする書を「律法」(トーラー)と「預言者」(ネビイーム)に限定し、「諸書」(ケツビーム)を入れなかったことです。これにより知恵文学の存在が抜け落ち、著者が力を注いだロゴス・キリスト論(62-77頁)にヘブライ語聖書の知恵文学との大切な接点がありませんでした。知恵文学は、箴言8章に見られるような知恵の神格化という側面のみならず、上村静氏が『終末の起源』( https://amzn.to/4p59mJd )で説いたように、破綻して説明不可能となった現実世界で終末を待ち望んで生きる人の知恵、という終末的視点があります。終末に向かう知恵文学という視点があってこそ、バルトによる上から下への啓示ベクトルに著者が満足せず、「イエス・キリストにおける啓示は…わたしたちの未来から働きかけ、私たちを未来へ結びつける水平的な地平における前から後ろへのベクトルをもつ」(105頁)と言う終末論的啓示論の物語が動き出すのだと思われます。

最後に、カルタゴ会議はそこまで強調されるべき教会会議だったのか、という歴史性です。著者も記しているとおり、カルタゴ会議ではトビト記やマカバイ記も正典に含まれていました。新約聖書を27書として最初に文書に残したのはアタナシウス個人による復活祭書簡でした。また、カルタゴ会議は地方会議であって公会議ではないため拘束力はなく、北アフリカ地域において教会で朗読されるべき神的正典をローマ教会に知らせて確認を求めたという性格のものです。それを「何が聖書に含まれているかが問い続けられたという歴史のプロセスを経て、最終的に教会の決定として定められた」(154頁)と表現することは、公同教会の権威をかなり強め、再び異端論争や、一神教内での争いを再現する知の船出となるのではないか、と感じました。

いずれにしても、福音主義神学の特別啓示論に歴史性と哲学的視点をもたらす、刺激的で有意義な書。幅広く用いられることに期待いたします。

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B六版308頁の内容は、福音主義神学における啓示論の学びの二冊目の参考書として、十二分に用いられる内容だと感じました。聖書が「神の言葉である」という議論において、著者は自由主義神学と新正統主義の意義を十分に認めつつ、「聖書は宗教書です。むしろキリスト教が思惟に基づく哲学ではなく、宗教経験に基づく宗教であるならば、そこに現れ出る言説に、神秘的で非合理な一面があって然るべき」(182-83頁)と保守的な聖書観を、霊性と絡めて堅持しています。

とはいえ詳細にあたっては、字句拘泥主義や命題主義的聖書観・世界観に大きなチャレンジを与えています。無誤・無謬論争に関しては「誤りをも通して真理を伝えることのできる信仰の論理である逆対応の論理によって顕れ出る神の全能の力が垣間見られます」(208-9頁)と記し、言い難い事実を的確な論拠でまとめる言葉に唸らされます。

聖書正典に関しては、保守派の聖書論に見られる、聖書記者の霊感論への傾倒を打破し、初代教会史における教会会議の決議に重心を置きます。「聖書は人間の言葉です。…つまり、誤りがあり、誤謬があり、時には欺瞞がある人間の言葉で聖書は記されているのです。しかし、神はその聖書の言葉を、教会会議において神の言葉として承認することを求めたのです。」(151頁)古代教会史を知らずして「教会は後追いで正典を承認したに過ぎない」といった言い方で脱歴史化を図る保守的聖書観の方々に、聖書論を教会史から考えるきっかけを与えるに違いありません。

さらに聖書の解釈、現代への適用に関しては、現在を過去化する方向性で解釈に臨むのではなく、過去を現在化する方向で臨むべきことを強調し、性的少数者に関する聖書箇所の解釈にある程度の分量を割いています。小林昭博氏の著作を引用しつつ「現代の思想や状況を聖書の時代である古代の言葉に持ち込んで理解し批判するという解釈に対する小林の鋭い批判」(228頁)に同意しています。適用に関しては「『わたし』という個人に関するものであって、自分以外の人に向けることはできません」(238頁)とし、過去起こった啓示が現代人へいかに語られるか、という動的な視座を与えています。

保守的な福音主義神学においては十二分に刺激的な特殊啓示論であり、しかも心の奥底に抱えている疑念へ果敢に踏み込んだ内容ですので、二冊目としてお勧めです。

さて、本全体の論の展開としては、啓示論に関する著者のバックボーンであるマルティン・ハイデガーが説いた「『存在』を立ち顕す『存在者』」という哲学的思考が用いられていることが鮮明になっています。見えざる神を顕す存在者としてのイエス・キリストを特殊啓示として最前面に打ち立てています。「イエス・キリストという人間の歴史の中に生まれ生きられた存在者を通して、神が『わたし』にとってどのような関わり合いがあるのかということをより具体的に知ることができる…神学の言葉で言うとき、それは特殊啓示という言葉になります。」(33-34頁)この啓示論の視点から、イエスの救済論的役割に関しても踏み込んでいるところが痛快です。神との正しい「関係」に戻ることを「救い/掬い」とするがゆえに著者は、主の祈りにおいて信者に至高神を「天の父なる神」と呼ばせるイエス・キリストの啓示論的・救済論的役割をこのように記します。「そのことによって、神を父とするイエス・キリストの宗教経験をなぞらわせます。それは、わたしたちに、神を父として追体験させ、それに応答するという信仰を求めているからです。」(52頁)

その上で、このイエス・キリストを指し示す書として聖書が存在する、という順序で聖書も特殊啓示であることへと展開します。「聖書はわたしについて証しするものだ」(ヨハネ5:39)というイエスの言葉を足がかりとして、旧約聖書がイエスを指し示す啓示の書であると立証していきます。「すなわち『律法』と『預言者』は『神の目から見た人間のあるべき姿』を示しています。だからこそ旧約聖書は、その成就した存在としてのイエス・キリストを証ししているのです。」(38頁)この論の展開は”キリスト教”の組織神学としてとても順当であり、知的に納得しやすいです。しかもそれが「存在と存在者」という哲学的枠組みで語られることにより、救済論、そして終末論にまで議論が発展されている柔軟さと一貫性を帯びています。とても小気味よい特殊啓示論です。

その上で数点、贅沢な願望が沸き起こりました。第一に「イエス・キリストを論証する旧約聖書」という順で記されたがゆえに、古代イスラエル史の果てにメシアが与えられた、という救済史の物語性が失われている点です。組織神学書にそれを求め過ぎてはいけないのでしょうが、著者が聖書の物語性を強調しているからこその高望みです。「聖書は絶対的な命題としての真理を語る科学の言葉としてではなく、一人ひとりの人生という相対的な場に生きる人の生を物語る物語を通して語る文学の言葉としてわたしたちに語りかけるのです。…聖書の言葉が、物語の言葉として語られるとき、神の前に限界性のある人間の言葉が、人間の言葉であると同時に、その限界性を超え、神の言葉としての神言性を有するのです。」(244頁)古代イスラエル民族という存在者、そしてその代表者となるメシアという存在者によって至高神の存在が立ち顕れるという物語があってこそ、東方教会の「神化」論も現実世界に接地するのではないかと感じました。

第二にイエス・キリストを証しする書を「律法」(トーラー)と「預言者」(ネビイーム)に限定し、「諸書」(ケツビーム)を入れなかったことです。これにより知恵文学の存在が抜け落ち、著者が力を注いだロゴス・キリスト論(62-77頁)にヘブライ語聖書の知恵文学との大切な接点がありませんでした。知恵文学は、箴言8章に見られるような知恵の神格化という側面のみならず、上村静氏が『終末の起源』( https://amzn.to/4p59mJd )で説いたように、破綻して説明不可能となった現実世界で終末を待ち望んで生きる人の知恵、という終末的視点があります。終末に向かう知恵文学という視点があってこそ、バルトによる上から下への啓示ベクトルに著者が満足せず、「イエス・キリストにおける啓示は…わたしたちの未来から働きかけ、私たちを未来へ結びつける水平的な地平における前から後ろへのベクトルをもつ」(105頁)と言う終末論的啓示論の物語が動き出すのだと思われます。

最後に、カルタゴ会議はそこまで強調されるべき教会会議だったのか、という歴史性です。著者も記しているとおり、カルタゴ会議ではトビト記やマカバイ記も正典に含まれていました。新約聖書を27書として最初に文書に残したのはアタナシウス個人による復活祭書簡でした。また、カルタゴ会議は地方会議であって公会議ではないため拘束力はなく、北アフリカ地域において教会で朗読されるべき神的正典をローマ教会に知らせて確認を求めたという性格のものです。それを「何が聖書に含まれているかが問い続けられたという歴史のプロセスを経て、最終的に教会の決定として定められた」(154頁)と表現することは、公同教会の権威をかなり強め、再び異端論争や、一神教内での争いを再現する知の船出となるのではないか、と感じました。

いずれにしても、福音主義神学の特別啓示論に歴史性と哲学的視点をもたらす、刺激的で有意義な書。幅広く用いられることに期待いたします。