広島大学教授・辻 学先生 書評:『青野太潮[著]どう読むか、新約聖書  福音の中心を求めて』書評

20201110

広島大学教授・辻 学先生より、ヨベル発行『青野太潮[著]どう読むか、新約聖書  福音の中心を求めて』書評が寄せられました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 先生の新刊『どう読むか、新約聖書』を御恵送くださり、誠にありがとうございます。タイトルを拝見した時、一瞬『どう読むか、聖書』の新訂版かと早とちりしてしまいましたが、あとがきを拝見して納得した次第です。広告も拝見していましたので、早速楽しみに読ませていただきました。あまり早く読んでしまったら、苦労して本を作られた著者と出版社に申し訳ない気もしますが。以下は、言葉足らずの読書感想文ということでご笑覧ください。

 東京バプテスト神学校での講演録が基になっているとのことで(私も、『隣人愛のはじまり』をめぐって1回だけ特別授業をさせてもらったことがあります)、以前の『パウロ:十字架の使徒』や、それ以前のご著書で述べておられた事柄が、よりはっきりと、強調点を明確にしながら展開されていると感じました。また、聖書学における議論を時にはストレートに(つまり、批判的な姿勢を堅持したままで)紹介しておられるところも、聖書学者の末席を汚す者としては、気持ち良く拝見した次第です。

聖書学、あるいは聖書神学をめぐる議論は、後半に行くほど激しさを増しているというか、厳しい調子になっていくように感じますが、それはおそらく、贖罪論や、「イエスとパウロ」という主題をめぐる議論が、この本で一番力点が置かれている部分だからなのだろうと思われます。(前半部は、神学校での講演らしい雰囲気ですが、後半になると、その Sitz im Leben があまり感じられなくなり、聖書学の議論という色合いが強くなっているように思いました。第1章で後半部の議論への「種まき」はなされているわけですが。

もちろん前半部でも、聖書学的議論はなされていて、たとえば処女降誕伝承とローマ1:4に関係があるという説は興味深く拝見しました。もっとも、誕生物語がローマ教会で成立したという可能性(96頁)については、やや疑問にも感じます。たとえば第一クレメンスは、(13:1-2のように)イエス伝承を知っていながらも、(私の見落としでなければ)誕生物語には言及していないようです。知っていたら、さすがに触れたはずだと思うのですが。誕生物語は、マタイ版もルカ版も、何とかしてイエスをベツレヘムと結びつけようという動機が明らかなので、「ダビデの子」であることを重要視する環境、となるとやはりパレスチナのユダヤ人キリスト教的背景が考えられそうに思うのですが。パレスチナのキリスト教徒も、処女降誕というヘレニズム的モチーフの伝統は知っていたでしょうし。

「正典の中の正典」をめぐる議論(142頁以下)は、歴史的判断と神学的判断とが混ざるので、なかなか難しいところがあると、改めて感じました。私のように、「周辺的なことがら」(142頁)ばかりを研究対象にしている人間から見ても、パウロ書簡は確かに新約正典の大きな中心の一つであるように思えます。第二パウロ書簡や公同書簡は、その「中心的福音」をどう受け止めるのかを示す受容史の例と言えると思うのですが(現在、ヨハネ書簡を除く公同書簡を、パウロ受容史の観点からまとめて論じられないかと考えているところです)、つまり、パウロが提示した福音はどのような解釈を生み出し、どのような現実を教会の中に生じさせるのかを考える上で、これらの文書が役立つはずだと思うのです。パウロ書簡が、救いをもたらす「福音」という薬を提示しているとしたら、第二パウロ書簡や公同書簡は、その処方箋であり、副作用の警告であり、服用結果の(失敗例も含む)実例の提示である、と言えるかもしれません。その意味で、これら「周辺的な」文書も正典に居場所を持っていると思っています。

パウロの思想がイエスの福音と事柄的(sachlich)に結びついているということは、(ユンゲルやブルトマンにも見られるとはいえ)青野先生の以前のご著書からも、そして今回もまた、深く教えられる事柄です。パウロは、通常想定されているよりもずっと多くイエス伝承を知っていたのではないかということにも賛成です。ローマ12:14がマタイ5:44//ルカ6:28を踏まえていることは、私自身も『隣人愛のはじまり』で述べたことがあります(93-95頁)。ただ、イエスの言行への暗示・ほのめかしを列挙しておられるところ(222頁以下)については、一つ一つの箇所を精査してみないと何とも言えないので、累積的な論証効果があるかどうかは、よくわからないと思いました。ここは今後検証していく必要がありそうです。

最後になりましたが、誤植を見つけましたので報告いたします。412行目の「合同書簡」はきっと「公同書簡」の誤りだと思われます。大変面白く(失礼!)思ったのは、大貫隆先生が『終末論の系譜』の中で、これと全く同じ誤植をしておられることです。妙なところで、お二人の連帯性(?)を感じました。それから、2135行目の「テユービンゲン」は「テュービンゲン」かと思われます。「合同書簡」の方は、見つけてすぐに安田正人氏に連絡しましたが、増刷には間に合わないとのことでした。

どうも長い感想文になってしまい、失礼しました。的外れなことも書いていると思いますが、なにとぞご寛恕ください。『パウロ』も学生には勧めていますが、今回の『どう読むか、新約聖書』はさらに読みやすい1冊として、授業で推薦させていただきたく思います。

行動が制約されてばかりの状況下ではありますが、どうぞ良い新年をお迎えください。ご健康が守られますよう祈っております。良書に恵まれたクリスマスを喜びつつ、後進へのご高配に心より御礼申し上げる次第です。