2018年4月号『本のひろば』 評者:矢木良雄先生
ジョン・マッカーサー著
山口衣子訳
聖書の女性たちはどのように形づくられたか、神はあなたに何をのぞまれているか
評者:矢木良雄先生(やぎ・よしお=太平洋放送協会理事長)
負い目を吹き飛ばすような神の恵みと霊的資質を描く!
少し長いが魅力的な書名である。『聖書に登場する12人の非凡な女性たち』、いつものようにあとがきから読み始めた。訳者あとがきである。そして衝撃を受けることになる。そこで訳者である山口衣子先生が、どのような中で翻訳に取り組んで来たかを記しておられる。この数年、死線をさまようような難病と闘い、二つのガンを経験し、ようやく三年にわたる抗がん剤治療から解放されたばかりとあった。「体調も悪く、完成できるかどうかも全くわからない状態でした。ただ子どもたちと孫たちへの遺言のような気持ちで翻訳を進めました」と述べておられる。軽く引き受けた原稿であったが、先生の覚悟、命がけの訳業を目の当たりにし、これはうかつには書けないと思いを新たにさせられた。「遺言的」訳書は重いものである。
著者であるジョン・マッカーサーは米国で影響力を持つ福音派の指導者で、カリフォルニア州のグレース・コミュニティ教会の牧師であるとのこと。邦訳はこの書が初めてであろう。『マッカーサー・スタディー・バイブル』でゴールド・メダリオン賞を受賞している。それ以外にも多くの著書があると紹介されている。
この書『聖書に登場する12人の非凡な女性たち』であるが、12人には著者のこだわりがあるようだ。以前の著書に十二使徒を扱った『12人の普通の男たち』がある。その続編として企画されたのが本書である。前書は「普通の」男たちとして使徒たちを紹介し、こちらは女性たちを「非凡な」と賞賛している。しかしフェミニストの立場ではない。むしろフェミニズムには否定的な立場を表明している。著者の意図は、「聖書に登場する最も意義深い女性たちは、成功したことではなく、女性らしい性格のゆえに重要な役割を果たしたことです。こうした女性たちが総合的に与えてくれるメッセージは『性差の対等性』ではなく『真の女性のすばらしさ』です」と、彼女たちの霊的資質に注目している。
聖書に登場する女性の中から12人に絞り込むのは容易なことではないだろう。まず気になるのは、どのような基準で12人を選び出したかである。取り上げられているのは、エバ、サラ、ラハブ、ルツ、ハンナ、マリヤ、アンナ、サマリヤの女、マルタとマリヤ、マグダラのマリヤ、そしてルデヤである。「非凡な」という基準から言えば、いかにもという女性もいるが、なぜ?という人物もいる。はしがきには「贖いの物語に重要な意味を持つ12人の女性を選び出した」とある。つまり神の恵みを例示するような女性たちを選んだということであろう。「こうしたすべての女性たちは、自分自身の生まれ持った資質ではなく、……神が女性たちを銀のように精錬してくださったゆえに、究極的に非凡な存在に生まれ変わった」のだと記している。
読んでいくと、多くの女性たちがその生涯に「後ろめたさ」を引きずっていたのがわかる。エバは最高の生を与えられながら、アダムに先だってサタンに惑わされ、さらに夫まで自らの罪に巻き込んでしまった、そうした負い目をずっと引きずっていたと思われる。サラは子どもが生まれないことに悩む。それは夫アブラハムに約束された祝福を自分が妨げているのではないか、という負い目であった。夫が喜々として神の約束を語るたびに、彼女の心は重く閉ざしたと思われる。ラハブはエリコの遊女であった。どれほどエリコ陥落の戦いに加担したとしても、その過去が消えるわけではない。ルツもまたモアブ人という出自を持つ未亡人に過ぎない。サマリヤの女も同様に好ましい女性とは認められていない。マグダラのマリヤも然りである。
この範疇に入らないマリヤのような女性もいるが、程度の差こそあれ、初めから「卓越した」人生を開始した人物はいない。だからこそ、これらの女性を選んだと著者は言う。ラハブに関しては「彼女は人間の罪の力の実例として私たちに示されているのではありません。……ラハブは神がその恵みによって、最も悲惨な人生さえ贖われることがおできになることを思い起こさせてくれる人物です」と記している。確かに、彼らの負い目を吹き飛ばすような神の恵みが、長い忍耐の末に与えられことを私たちは聖書のうちに、またこの書を通して知ることができる。それがエバから始まりルデヤに至るまで、彼女たちが握り続けた希望であった。
著者が『スタディー・バイブル』を著していることからもわかるように、12人の時代背景や生涯が丁寧に扱われていて、人物の全体像が浮かび上がってくる。また新約聖書から多くの聖句を引用し、彼女たちの生涯の意義を解き明かそうとしているのもこの書の特徴である。巻末に「学びの手引き」が加えられているのは、教会でのバイブルクラスを念頭に書かれているからだろう。個人で読むことも幸いであるが、ぜひ学びのテキストとしてもご活用いただければと思う。