広く、深く、壮大、しかも面白い!内容の読後感 国際教養大学学長・鈴木典比古氏

20170621

湊晶子著
聖書は何と語っているでしょう
―「生きること」「死ぬこと」そうして「永遠に生きること」

評 者  国際教養大学学長・鈴木典比古氏

 本書は、湊晶子先生が学長を務められた東京女子大学及び現在も学長を務められている広島女学院大学での聖書研究会における五回の講義を一冊にまとめたものである。本書の書評を出版社から依頼された時、著者の湊晶子先生のいつものあの笑顔と明るい声を心に浮かべながら、気軽に引き受けたのだった。

 それが読み返しが四回目になりながらもこの読後感をどう書評に結び付けたらよいか、伸吟している。それほど本書の内容が広く、深く、壮大だ。…が、面白いのである。

 第一回目は気軽に読み始め、私が存じ上げている湊先生のこれまでの長い人生(現在84歳)を追った。五代も続くクリスチャンホームに生れ、戦前の教育制度の中でクリスチャンとしての強い違和と葛藤を感じながら過し、空襲の際頭部に傷を負いながらも九死に一生を得たこと、戦後フルブライト奨学生としてアメリカに留学し、ウィートンカレッジで学んだこと、渡米の船で将来の夫君となられる湊宏氏に会われたこと、帰国後は東京基督教大学及び東京女子大学教授として(そして後年は東京女子大学学長、現在は広島女学院大学院長)、長い大学教員生活を送ったこと、その中で三人の子供を残して夫君は四十四歳の時に天に召されたこと、再婚なさった新しい夫君も五年足らずで天国に送ったこと、等々。この様に、多難にもみえる人生を送って来たのに、今、私が接する湊先生はいつでも笑顔で明るい声で、前向きであるのは何故なのか。その答えは本書の基調を成し、全篇にあらわれている。即ち、湊先生曰く「私は自らの人生経験を重ねながら、「人は何のために生きるか」と問われれば「聖書という鏡に自らを写しつつ、神の栄光をあらわすために、いかなる苦難をも乗り越えつつ生きることです」と答えます。」

 私が本書を二回目に読んだ目的は「人間の死から生へ、そして永遠に生きること」の意味を著者はどう解釈し、自らのものとしたかを知ることであった。

 ここで決定的に重要なのは、キリストが「神の子」であり「人の子」であり、更に「主」であるという三位一体の存在であり、本質において三つが等しい実体であるということである。しかしながら、人間は①神との断絶(失楽園)、②人間の限界(カインとアベル)、③自然の力の限界(洪水)、④文明・文化の限界(バベルの塔)等によって、神からのその自律・自立性を主張した(35頁)。だが、その結果として、人は原罪を受けることになる。この原罪を人間に代って一身で引き受け、人間に罪の赦しをもたらしたのがキリスト・イエスであった。

 この「人の子」は十字架につけられて死んだが、「神の子」として三日目によみがえり、天に昇り、全能の父・神の右に座す「主」になられたのである。「神は、その独り子をお与えになったほどに、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書三章16節)。ここに、神が独り子をこの世につかわすことによって、人間が死から生を得、その生が永遠のものになるという、神による人間の一貫性が成就するのである。

 三回目にこの本書を読みなおした理由は著者が述べる女性論にある。「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取りその跡を肉でふさがれた。そして人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた」(創世記二章21~22節)。このようにして造られた男性と女性は人格的に別のものであり、この二つの性が一体となり、パートナーとなるとある(34頁)。しかし、この男と女は神が食べてはいけないといましめてあった禁断の実を一緒に食べた。著者は、この「一緒に食べた」という行為に男性と女性の罪の同置性を見、罪の本質を見る。この同置された罪から救われるには、「一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ること」(ローマ人への手紙五章18節)が必要であった。一人の正しい行為とはキリスト・イエスによる死とよみがえりと生の復活である。しかし、この男性と女性の罪から救うという同置性は、日本に於いては「家制度」による家父長制の存続によって女性の地位、妻の存在が低いものとされてしまった。明治以降に創立された女子学校(多くはキリスト教主義に基づく)においては、この根強い家制度の中でキリスト教に基づく真の女性観とその教育がなされて来たのである。著者の奉職した東京女子大学や現在学長を務める広島女学院大学はこのキリスト教的女性観を教育の基本におく日本の代表的女子高等教育機関である。

 さて、私が四回目にこの本を読んだのはそのタイトルに関係している。本書のタイトルは『聖書は何と語っているでしょう』というもので質問型なのだ。この質問は一体誰に向って発せられているのだろうか。一つには、著者自身が自分に向って発している自問自答であるとも考えられる。つまり「聖書は何を語っているのでしょう」という問いに対して著者は「私はこう思います」という自答を本書にくり返し表明している。しかし、もう一つの型は、第三者である読者(評者も含めて)に対して「聖書は何を語っているのでしょう。あなたはどう思いますか?」という問いかけにしているともとれるのだ。これに対しては読者一人一人が「私はこう思います」という答えを表明しなければならない。

 これは容易な事ではないのである。おそらく非キリスト者にとって勿論そうであると同時にキリスト者にとっても容易ではない。核心はキリスト・イエスを「信じ切る」かどうかという一点に凝縮されているからである。

 この一点に関してキリスト者は肯定の答えを表明してはじめて大安心を得るのである。