生と死——教会生活と礼拝 評・三浦 修

永遠のいのちは未来のことではなく、既に与えられている!

山下萬里著:生と死——教会生活と礼拝 
(新書判・二七二頁 定価一四七〇円〔税込〕・ヨベル)

ヨベル社主、安田正人氏よりの書評依頼をお受けした理由が二つあります。第一は、著者山下先生には日本基督教団関東教区埼玉地区で同労者としてご指導を賜ったこと、加えて先生が召天された告別式で関東教区総会議長であった私が弔辞を述べさせていただいた所が東所沢教会であったこと。

第二は、文中の先生の愛唱讃美歌〝山路こえて〟にまつわるエピソードが心に深く刻まれていたことです。私が神学校を卒業して開拓伝道を志した時、先輩のS牧師が牧会を離れて聖書販布の仕事に就いておられました。少しでも家計の一助にと、旅館をとらず野宿された折に、この讃美歌を口ずさみながら眠りについたとのお話を直接聞かされたことでした。

今日の東所沢教会の開拓伝道に従事された山下先生のご苦労を推察し共鳴したことです。

本書の中に納められている八篇の説教、

①感謝(Ⅰテサロニケ五・一六~一八)
②親切(ヨハネ一三・一二~一七)
③創造(創世記一・一~三、三一)
④祝福(Ⅱコリント一三・一三)
⑤教会暦(使徒言行録二十・七~十二)
⑥教派(エフェソ四・一~六)
⑦死と生〈1〉(ローマ六・一~一一)
⑧死と生〈2〉(ローマ六・一~一一)

が南沢集会という家庭集会での説教であったことの驚き、準備された先生の信仰と博識(仏教、ヒンズー教、儒教、哲学などの分野に及ぶ)、聴衆の傾聴姿勢の真剣さが伝わってきました。また巻末の「十四年をふり返って(抄)」も楽しいエッセイです。

以下の書評は本の標題「死と生」より⑦死と生〈1〉、⑧死と生〈2〉を重点的に述べることです。

死と生〈1〉について

人生観とはその人の行動を決定する一つの規範と定義されたこと、そこには(イ)建前の人生観と(ロ)本音の人生観があると分析されたことに改めて頷かされたことです。

次に死生観~(生のほうは人生とし、死ということに対する考え)~これにもその人の行動を決定する規範があるとされています。

死〟とは知的な学びではなく体験的な学びでなければならないとして〝生から死〟を考えるのではなく〝死から生〟を考え、捉えることの重要さを昨今の死に対する医療現場での現状を指摘されます。 〝死に至る病い〟を持った患者が最後を迎える時、ほとんどの家族が愛する人の死に立ち会えない点、患者と生前に深い絆を持った方々との〝会話〟と〝看取り〟が保証されるべきだと強調されます。

〝天国で再会しましょう〟との約束を双方が確認したいからです。著者は本篇の最後に、キリスト教に於いて「正に死というものを乗り越えようという事柄が起こってきたのです。そうしますと私たちの生も、はじめて本当の意味を持つようになると思います。」(二〇六頁)と結ばれています。

 

死と生〈2〉について

著者が本篇で一番強調されていることは〝永遠の命〟です。引用聖句として「神は、その独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書三章一六節)を取り上げられます。〝永遠の命〟が与えられるのは未来のことではなく、既に与えられているとされていることに励まされます。

終わりに二〇〇四年一月二十一日の山下先生の葬儀で後継者、深見祥弘牧師の式辞を引用します。「召天された一月十八日の未明、山下先生はベッドの上に身を起こされ〝先生、先生〟と呼ばれたそうです。看護師さんは急いで担当の医師(クリスチャン)を呼ばれました。しかし医師は自分を呼んでいるのではなく〝ラビ、ラビ〟と主イエスに呼び掛けておられるのだと思われたそうです。

この朝(主の日)、復活の主のお姿を見、その名を呼び、すべての苦しみから解放されて天国へと旅立たれたことと思います。……」

まさに「死と生」について本書を書き残された山下先生に適わしいご生涯でした。

(みうら・おさむ=日本基督教団埼玉和光教会牧師)