林 巌雄氏 日本基督教団 まぶね教会牧師の書評 2
評者:林 巌雄氏(日本基督教団 まぶね教会牧師)
——————————————————————–
誤読ノート910:「インマヌエルと義認信仰の一致」
——————————————————————–
滝沢克己著『中学生の孫への手紙 人生の難問に答えて』(滝沢克己、滝谷美佐保、2025年、ヨベル新書)
インマヌエル、アガペー、シャローム。この三つの言葉に旧約聖書、新約聖書のメッセージは凝縮される、とわたしは思います。
神の救いとは、わたしたちに何か良いことが起こる、心身が癒される、人生が支えられるということ以前に、神がわたしたちとともにいらしてくださる、ということだとわたしは思います。
インマヌエルとは「神がわたしたちと共にいる」という意味の聖書の言葉です。マタイによる福音書1章によりますと、イエスには、イエスという名前と、もうひとつインマヌエルという名前があります。「イエス」とは「神は救う」という意味であり、インマヌエルとは「神は共にいる」ということですから、「神の救い」とは「神が共にいること」と受け止めることが可能です(石田学著、「聖書通読31 神の救いをたどる旅」、2025年、日本キリスト教団出版局、p.46参照)。
神が何かを具体的になしてくださるということより、わたしとともにいてくださるということの方が、わたしにははるかに受け入れやすいです。
旧約聖書の創世記は、神はわたしたちとわたしたちの生きる世界を創造したというメッセージを発しています。神がわたしたちとともにおられることは、わたしたちがここに生かされているということからも伝わってきますが、もうひとつは、わたしたちには生きる世界が用意されていることからも推測されるのではないでしょうか。
わたしたちは世界がなければ生きていけませんが、世界はわたしたちが創ったものではありません。空間、時間、地球、自然、動植物、文化、社会制度、まわりの人びとは、すべて、わたしたちが創ったものではなく、わたしたちが生まれる前から用意されていたものです。つまり、わたしたちは自分で自分の生命や世界を創ったのではなく、それを用意してくださった神がおられるのではないでしょうか。その意味では、世界は神がわたしたちとともにおられることのしるしであるようにも思います。
さて、インマヌエルという言葉、概念、真実にわたしが惹かれたのは、滝沢克己がインマヌエルを前面に出して唱え、これがキリスト教界に、ある意味、流布したことによると思いますが、わたしは滝沢の本を読んだことはありません。
しかし、これからは、滝沢がインマヌエルを語る書を読んでいきたいと思います。
本書はそのための、良き入り口となりました。
本書は滝沢克己が中学生のお孫さんに書いた手紙集です。
滝沢は、まず、「生きていく支え」「死によっても滅びない確かな土台」「人が生きてゆくうえでいちばん大切なもの、どうしてもなくてはならないもの」、それは何か、と問題提起をします(p.12)。
滝沢が「いちばん大切」とするもの、そのお方は、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ・・・天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らしてくださる」(マタイ5:43-45)と滝沢に言います(p.20)。
むろん、このいちばん大切なものは、インマヌエルと呼ばれるイエスです。
しかし、滝沢はキリスト教だけが真理を語っているとはしません。
「仏教にとってもキリスト教にとっても、一番大切なこと・・・一言でいうと、人間は皆・・・そのままですぐに、神さまの子ども、一人々々かけがえのない可愛い子どもだ、という根本的な事実です」(p.22)。
「仏教もキリスト教も、その始まりの釈迦もイエスも、それぞれの時と処で、このような生命の真理を体現した人です」(p.23)。
この「生命(いのち)の真理」は次のように言われています。
「その真理を一言で言い表わすとこうです。「人間はどんなに偉くてもけっして本当の主(あるじ)(主なる神=主体である仏)ではない、と同時にしかし、人間はどんなに小さな詰まらぬ者でも、必ず本当の神様=仏様とまったく直接に、絶対に離れることができないように結びつけられている、世界中が自分を見捨てても、本当の神様=仏様はけっして自分を見捨てない」(p.28)。
「詰まらぬ者」という表現は再考されるべきですが、神、仏という言葉で言い表わされる、わたしたち人間の根本的な主(あるじ)はわたしたちとつねにともにおられる、という真理はそのとおりだと思います。神や仏という言葉で言い表わされているものは「生命」の源のことであり、この源がわたしたちを見捨てることはなく、その意味でわたしたちは「生命」に与っているということではないでしょうか。
滝沢は「生命の真理」を「ただ大きな奇跡というほかない原本的な事実」(p.29)とも言っています。ここには「原本的な」とありますが、本書には「神との原初の結びつき」(p.61)ともあります。滝沢にとっては、これがインマヌエルの内実です。
これは、キリスト教の言葉で言えば「神の救い、恩寵、恵み」ですが、聖書では、これに基づいて、わたしたちの生き方が示されています。
「神さまの愛に応えて他の人と世界を愛しなさい、そうすれば・・・奥深い芯のところでほんとうに明るい充実した生を楽しむことができる」(同)。
これらの消息を以下のようにも滝沢は述べています。
「人間は主人ではない、むしろただ、本当の主(永遠の生命なる神=仏)の僕・・・絶対に親しく厳しい縁で結ばれているおかげで、はじめて人間として生きる、ということができている」(p.29)。
神さまの救いと人間の生き方については、さらにこうあります。
「人が人である、一人の人として事実存在するということは、何よりもまず第一に、そして結局のところいつもただ、人ではない本当の神さま、イエス様が「父」と呼んだその神さまの恵み(力と光)による・・・人間にできること、することを許されていること、しなくてはならないことはただ一つ・・・こちらが何かを望み、思うに先立ってすでに来ている「父の御意(みこころ)」を、できるだけ精確に聴き分け、それに応えて行動するということだけです。各人の今日は、もともとその人の私物ではなくて、眼には見えないけれども「偕(とも)に在(いま)す神」(「天の父」)の、かけがえなく尊い贈り物です」(p.43)。
「父の御意」を聞き分けて行動するとはどういうことでしょうか。親はわたしに医者になることを望んでいるのか、それとも弁護士か・・・そういうことではないでしょう。親はそんなことよりわたしが心ゆたかに生きることを望んでいるのではないでしょうか。
神の御意も、神はわたしに教師になることを望んでいるのか僧侶になることを望んでいるのか、というようなことではなく、神がともにおられることを知り、感謝し、安心し、それを土台にして、神と隣人を愛する生き方をすることではないでしょうか。
さまざまな人々がイエス像を描きますが、滝沢はイエスについてはどう思っているのでしょうか。
「抑圧者たちの迷いを醒まし、被抑圧者たちの病を癒して、人の生命の真実の源に立ち還らせ、ほんとうに平和な世界を来たらせようとしたイエスの言葉と業」(p.55)。
「抑圧者たちの迷い」「被抑圧者たちの病」とは、興味深い言い方です。滝沢はイエスへの信仰を持ちつつも、キリスト教を絶対化せず、それゆえに、聖書の事柄も多様に言い表わしています。たとえば・・・
「イエスさまが「わたしの父」とおっしゃったその神さま(それ自身永遠普遍の愛であり光であり力であるいのちそのもの・・・永遠の生命・・・)(p.68)。
つまり、神を「わたしの父」「永遠普遍の愛」「「光」「力」「いのちそのもの」「永遠の生命」と言い表わしています。
滝沢が「永遠の生命」というとき、それは人間が死後も長く久しい時間を生きるようなことをいうのではなく、神であり、愛であり、力であり、父である存在を指しています。
滝沢は、人間の唯一の支えであり、生きるための源を「いのちそのもの」と呼んでいます。「いのちそのものは唯一つです。これをキリスト教では「まことの神エホバ(注 在りてあるもの=われ在りと言うもの、現在はヤハウェ)」、仏教では「仏性(ぶっしょう)」とか「法性法身(ほっしょうほっしん)」とかいう名で呼びますが、そういう名で呼ばれているそのものは同一・唯一です」(p.76)と言います。
そして、宗教者とは「唯一絶対・永遠普遍のいのちそのものの愛と光と創造力を、その身に映して、他のあらゆる人を愛する人、その愛に満ちて輝く人、活動する人」(p.77)のことであると言います。
この場合の「唯一絶対」はキリスト教だけが唯一絶対の宗教だという意味ではありません。ここでの「唯一絶対」は排他性ではなく、根源性を示しています。聖書、キリスト教の神も「根源的」ないのちのことを指しているというのです。
わたしはこの本を荒井克浩さん(独立伝道者、無教会)のSNS投稿によって知りました。
荒井さんは、信じる者だけが救われる「信仰義認」を克服して、すべての人は神の恩寵により無条件に救われているということを信じる信仰(義認信仰)を説いておられ、わたしもそれに共感しています。
わたしたちが善い行いをしたとか一所懸命に神を信じたとか、そういうことへのご褒美として救いがあるのではなく、神さまはそれ以前からわたしたちの存在を良しとしてくださっている、神さまの救いは無条件である、という信仰です。
滝沢が言っているインマヌエルの信仰もまさにこの信仰です。
滝沢さんのお孫さんへの手紙には「インマヌエル」という言葉は出て来ない(ように思う)のですが、荒井さんは、本書の解説でこう述べています。すなわち、滝沢が本書の手紙で言う「いのち」「人の生命の本当に最初で最後の根基=根源」は、滝沢の他の著作で言う「インマヌエルの原事実」であると(p.103)。
「滝沢先生の見出された真理であるインマヌエルは、先に述べましたように、人が信じても信じなくても、信仰者であってもなくて、あらゆる人の存在、人の意識に先立ち、神が人と共に無条件でいてくださる一点です」(p.106)。
ここにおいて、滝沢と荒井さんの信仰が共振しています。
神が創造主であり、無条件の愛そのものであるという聖書を貫く使信が、インマヌエル信仰、信仰義認を克服した義認信仰に至ることは、わたしにとっても何の不思議もありません。
神の無償の愛をアガペーと言いますが、アガペーとインマヌエルはひとつのことでありましょう。
伝統的な三位一体になぞらえて、冒頭で述べたわたしの考えをもう一度言い直せば、アガペー(創造主、父なる神)とインマヌエル(救い主、御子イエス・キリスト)とシャローム(平和、平安)(聖霊)は三つにして一つである、ということになるでしょうか。


