林 巌雄氏 日本基督教団 まぶね教会牧師の書評

評者:林 巌雄氏(日本基督教団 まぶね教会牧師)

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誤読ノート914:「信仰は手段か信頼か

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366日元気が出る聖書のことば  あなたはひとりではない」(岩本遠億著、2020年、ヨベル:現在9刷)

牧師にして言語学教授である著者が、聖書の短い引用とコメントからなるメッセージを一日に一編ずつ、366日分、書いてくださいました。

じつは、コメントが先にあって、最後に聖書の言葉が記されています。そこにはどういう意図があるのでしょうか。

基本的には、伝統的保守的な聖書信仰にのっとっているように思われますが、ユニークな例話や解釈も交えられています。

「人生の道、右に行くか左に行くか悩む時もあります。その時は、神に直接相談すれば良い。占い師のようには答えてくださいません。しかし、自ら決断する勇気を与えてくださいます。そして、心の奥底に光を照らし、平安を与え、歩むべき道へと導いてくださる」(p.45)。

決断に悩む時、神さまに祈るのは、答えを聞くというより、勇気と光、平安をいただくためだ、というのです。

「人の心そのものに、神の言葉を育てる力がある。そのように、神は私たちを造ってくださった・・・石ころを取り除き、雑草を抜き、害虫を駆除してくださる神さまがいる・・・キリスト者同士の意見の食い違いに戸惑うとき、この心の中に植えつけられている神の言葉を信頼しよう。あの人の心の中に植えつけられている神の言葉を信頼しよう。そして、神が一人一人の心という地を整えてくださることを」(p.52)。

自分と異なる人にも神さまが働いておられると信頼することは大事ですね。

「イエス様がこの地上の生涯で、絶大な価値があるものとして、最も大切になさったのは、低められ、卑しめられた人々でした。イエス様は、このような人々をタラントと呼んでおられるのです。そして、僕たちに「わたしの大切な宝である、この人々を大切にしなさい。彼らを生かしなさい」と仰っている」(p.61)。

これはタラントの新鮮な解釈ですね。

「イエス・キリストは「神の独り子」と呼ばれます。ここで「独り子」という言葉は、「自分自身」という言葉を比喩的に言い変えたものです」(p.66)。

そうすると、神の独り子イエス・キリストは神ご自身ということになりますが、この「独り子」解釈も新鮮です。

「人は自分の正しさを主張します。しかし、自分の正しさを主張する時、そこに必ず否定される人が存在することになります。自分の正しさの主張は、まさしく、愛の否定なのです。サタンの策略は、人に自分の正しさを主張させるところにあります。

 イエス・キリストは、十字架にかけられる前に議会で取り調べを受けますが、偽証に対して何の反論もなさいませんでした。イエス・キリストの戦いは、自分の正しさを明らかにする戦いではなく、サタンの策略を打ち破る戦いだったからです」(p.68)。

正しさの主張は愛の否定、サタンの策略、それに打ち克つイエスさまの戦い・・・大事なポイントですね。

「不条理の只中で、なお「神は愛である」と私たちに呼ばせる圧倒的ないのちを注ぐのがキリストの十字架の血なのです」(p.78)。

わたしたちの人生には不条理や苦しみがありますが、十字架という最大の不条理と苦しみを背負ってくださったキリストに、わたしたちは神の愛を見、それによって、人生を生きるいのちを与えられる、というのです。

「愛は自分の正しさから離れさせるいのちです。自分の正しさから離れる時、主イエスの十字架の血、甦りのいのちが私たちの中に満ち溢れる。その時、私たちは自分の正しさから離れることができる」(p.138)。

神さまは「正しさ」よりも愛を選ばれました。その愛に満たされるとき、わたしたちも自分の「正しさ」から離れ、愛に生きることができるというのです。

わたしたちの「弱さも、罪深い心さえキリストのもの・・・病気で苦しむ体もキリストのもの・・・良いところも悪いところも、強いところも弱いところも全てがキリストのもの」(p.150)。

「私が他のキリスト者について、その人の問題、その人の弱さと思っているものも、キリストのものである。私が生きているのではない。あの人が生きているのではない。キリストが生きているのだ」(p.151)。

そうであるなら、わたしたちは自分を嘆いたり蔑んだりしてはならないし、同時に、他人を見下したり軽んじたりしてはならないのです。わたしの中にも人の中にもキリストが生きておられるのですから。

「愛のある人になど決してなれない私。自分を清めることも、変えることもできない私です。だた、キリストに接ぎ木されること、キリストの愛がこんな私に流れ込んでくることだけを、私は乞い求めます」(p.186)。

キリストに接ぎ木され、キリストの愛が流れ込んでくる・・・とてもよい表現ですね。

「教会では、キリストを信じたら救われて天国に行けると言われることが多いですが、そこには、天国が目標であって、キリストを信じることが手段であるという意味が含まれ、聖書からずれています」(p.223)。

これは、かなりインパクトの強い言葉ですが、キリストを信じることは「手段」ではない、ということでしょうか。

子どもたちは「ただ神様と一緒にいるのが好きだから一緒にいる、それだけだったはずです・・・しかし、大人のクリスチャンは信じるために理由を求めます。罪が赦されるために信じる、天国に行くために信じる……。イエス様との関係が手段になってしまっている」(p.312)。

神さまの愛があり、子どもたちはそれを信頼する。しかし、大人は神さまを信頼することで、神さまの愛を受けようとする、そのような信頼は信頼ではない、ということでしょうか。